電車

(1995.11.28)

   16年前,初めて上京した時,(誰でもそうだと思うが)驚かされたの が,都会の電車だ。
   岡山の片田舎で育った私には,そもそも「私鉄」とか「地下鉄」の概念 がない。電車といえば,それは即「国鉄(今のJR)」であり,「遠出 をする時に使う特別の乗り物」といった概念で捉えていた。
   それに,私鉄にはやたらと「急行」「快速」「特急」といった仰々しい 種類があることも,不思議であった。最初,「急行」には当然のごとく 「急行券」が必要なのだ,と思い込み,わざわざ「普通」とか「各停」 を使ったこともあった位だ。
   地下鉄が相互に乗り換えられる,ということにも,しばらく馴染めなかっ た。初めは,「丸ノ内線」「東西線」「千代田線」というのは,会社が 違うものと思っていたし,当然,乗り換える時は,別料金だと思ってい た。しばらくして,路線名の違いなのだと気付き,料金も通算でよいと 理解できたが,まだ,落し穴があった。「都営線」というのは,全く別 料金なのだった。ちなみに,当時は,「都営六号線」といった呼び方を していたように記憶している。記憶に間違いがなければ,これは今の 「三田線」のはず。
   駅と駅の間隔が短いのも異様であった。下手をすれば,歩いた方が早い ような距離(何せ,隣の駅のプラットフォームが見える!)に平然と駅 舎が作られている。西武新宿線の都立家政駅で,この現象に初めて気付 き,気をつけて見ると,都内の私鉄沿線には,そうした立地が少なくな いと分かってきた。むろん,JRのローカル線では,こうした状況はほ とんど見られない。
   あれだけ近い距離に,駅が並んでいるにも関わらず,都心では今なお, 新線の建設が進んでいる,というのも妙な感じだ。道路を利用するバス の定時性が保証できない以上,それも無理からぬことかな,とも思える し,丸ノ内の外側の,特に円周方向への移動を考えれば,環状路線の整 備を急ぐのも理屈の上では理解できるのだが。果たして,一貫した理念 の上で整備されているのだろうか,という素朴な疑問が湧いてくる。
   むろん,「都市計画」研究者の端くれでもある私にとっては,それは重 要な研究課題でもあり,本来ならば,キチンとしたデータに従って発言 すべきことなのだろう。例えば,都内のある地点から,任意の地点への 移動時間の平均値を求める,といった地道なシミュレーションが必要 だ。実際には,時間帯,天候,乗り換え時間,平均待ち時間,といった データをすべての地点(少なくとも,駅,バス停ごとに)で揃えなけれ ばならないし,高齢化社会を迎える新世紀の提言のためには,さらに, 健常者,高齢者,車椅子などの補助具を必要とする者,といった場合分 けも不可欠となろう。細かく言えば,路面のデータ(特に傾斜・段差) も必要だ。ということを考えると,なかなか,真面目に取り組む気にな れない。どなたか,こんな大げさなシミュレーションをやる人はいない もんだろうか?(いなきゃ,自分でやるっきゃないけど)
   少し,話が脱線してしまった。
   都会の電車事情で,今以って分からないこと。一言で言うと「マナーの 悪さ」。
   駅の構内放送で,あれだけウンザリするほど「降りる方のためにドアの 前を空けてお待ちください」と言われているにもかかわらず,開くドア の真ん前に立つ(例外なく)オバサン。逆に,混雑しているのも降りる 人が結構多いのも一目瞭然なのに,戸口の前でしゃべくっているショー ガクセー(そもそも,何で小学生が電車通学なんや?),チューガク セー(下手すればコーコーセーですら)。要するに,いったん外へ出て 戸口を広く空ける,といった基本的な思いやりに欠けている輩の,何と 多いことよ。
   ま,空いている時間帯を選んで通勤できる私は,チョー過密の満員電車 を知らないから気軽なことを言ってられるのかも知れない。けれど,電 車の乗降のマナーくらい,きちんとしつけぇい!,と怒鳴れない私は, せめてもの抵抗で,電車を降りる時は,真ん前に立つ人を避けずに降り ている(もちろん,それがヤバソウな仁は見極めた上で。ここらへんが 情けないけど)。